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紡ぐ感動 神話となれ 日本のひなた宮崎 国スポ・障スポ 第81回国民スポーツ大会 第26回全国障害者スポーツスポーツ大会

日本のふるさと宮崎国体とは

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昭和54年(1979年)に開催された第34回国民体育大会は、テーマを「日本のふるさと宮崎国体」と名づけ、「伸びる心・伸びる力・伸びる郷土」をスローガンに、113万県民の総参加による手作り国体を目指した大会でした。
本大会での宮崎県勢の活躍はすばらしく、念願の天皇杯(男女総合優勝)・皇后杯(女子総合優勝)を獲得しました。
 
昭和54年(1979年)は、国体とあわせて、第15回全国身体障害者スポーツ大会が、「ふれあう心・あふれる力・のびゆく郷土」を大会スローガンに行われました。

あの日、あの時プレイバック

氏名 宗茂さん/宗猛さん(延岡市)
エピソード 自分達を生かせるのは長距離であると信じ、中学で陸上界に足を踏み入れて以来、辞めたいと思ったことはありません。宮崎国体時は、少年選手達と同じ宿舎から会場へ向かいました。
〔茂さん〕出場予定だった30㎞ロードが台風で中止に。空いた時間を使って同じ種目に出場予定だった山口県代表の伊藤国光さんと大雨の中、30㎞走りました(笑)。
〔猛さん〕10000mは最終日。風の強い日でした。地元開催なので負けられないと思っていました。我慢とラストスパートが成功し優勝できました。
旭化成陸上部として「ゴールデンゲームズinのべおか」に携わっていますが、大会は、選手、ボランティア、スタッフ、観客の各々が試行錯誤し力を出し切ることで成長していくものだと実感しています。中でも観客の力は大きい。大会の雰囲気を決めます。
令和9年の大会が、会場一杯の観客に包まれたら最高ですね。
氏名 国吉 奉成さん(東京都)
エピソード 「攻めている」先取されても焦りはありませんでした。兄の影響で始めた剣道。西米良村から一人、高千穂高校に入学し先生宅で下宿生活。捨て身で飛び込んだ胴が決まったその日は私の誕生日でした。親への感謝と「お天道様は見てくださっていた。」と回想した思い出があります。大変緊張した天皇杯拝領の大役。切瑳琢磨した仲間、恩師、町を上げての応援等、関係者の皆様に心から感謝しています。私にとって宮崎国体は人生の岐路。あの日がなければ、皇宮警察本部に奉職し、今に至るまで剣道を続ける人生はなかったでしょう。今頑張っている子ども達に伝えたい。無茶は禁物されど積極的に、練習だけでなく日常や周りとの会話を大事に、そして全てに感謝を。私も剣道を通じて恩返しをしていきます。
氏名 溝ノ口 修敏さん(宮崎市)
エピソード 「障がい者スポーツの全国大会に鼓隊として参加できる。」と知ってからの約1年は、平日の朝夕に30分、長期休暇中も集まり練習を重ねました。鼓隊は、県内に2校ある聾学校の小学生から高校生。最年少だった私は「太鼓の重さ」と「大きな歩幅」に一苦労。いよいよ開会式。ステージ前に立った時、横目でこっそり見上げると、皇太子様と美智子様が拍手をされている姿が見えました。本当に嬉しかった。練習風景が掲載された新聞記事は私の宝物です。また、当時小学5年の私は、この時初めて、様々な障がいを持った方々が頑張っている姿を目にしました。令和9年の大会に向けて、手話が一つの言語として普及し、多くの方が障スポにも触れる機会が増えればと思います。私は、いろんな競技を見に行く予定です。
氏名 後藤 敏郎さん(宮崎市)
エピソード 15人で「走る、パス、キック、突進」する姿に魅せられて始めたラグビー。最初に教わったのは「謙虚であれ。妥協なきプレーの先にあるノーサイド」というラグビー精神でした。以来、ラグビーは私に人との繋がりと社会を学ぶ機会を与え、精神的に支えてくれました。宮崎国体時は競技役員でした。気心知れた仲間とラグビーの普及強化のために頑張れることが楽しかった。宮崎県成年は、実業団選手で構成する他県と互角に闘い準優勝を、少年は優勝をおさめ会場地だった都城市民の応援に応えてくれました。60年以上ラグビーと関わってきて感じること。それは、選手の頑張る姿に観る者は自分自身を重ねるということ。令和9年の大会も、応援する側、される側、共に皆で同じ夢を見たいですね。
氏名 結城 敬一郎さん(宮崎市)
エピソード 「甲子園の道一筋」中学の卒業アルバムにそう記した私は、高校は陸上部、大学は箱根を走る谷口浩美選手に憧れ上京、4年間、駅伝部の仲間と寝食を共にすることになります。始まりは、宮崎国体の炬火ランナーと直後の駅伝大会。声援の中を走る心地良さから私は「走る」という選択肢をいただきました。また、高校時代に読んだ恩師の特集記事「弱い競技者から強い指導者へ」は、私に教員という夢を与え、今に至っています。誘ってくれた恩師、苦楽を共にした仲間、苦い思い出、全部ひっくるめて、陸上競技を通して得た多くの出会いは、私の人生の財産です。
どんな形でもいい。国スポ・障スポに、ぜひ、関わってみてほしい。2027年の大会が、子ども達の人生を豊かにするきっかけになってくれればと思います。
氏名 斉藤 重保さん/富永 喜美夫さん(宮崎市)
エピソード 私達は、宮崎県初のホッケー競技チームのメンバーです。宮崎国体開催のためにスポーツ好きを集めて作ったチームでした。当時県内に2人いた経験者からルールを教わり、河川敷でやった基礎練習、大敗に終わった初の公式戦、大会はいつも選手兼運営、天覧試合と台風で決勝戦が中止になった宮崎国体、そして国体自力出場を決め、感激に涙した1991年石川国体・2022年栃木国体。全てが昨日のことのようです。思えばこの半世紀、ホッケーに私という人間を作ってもらいました。今、ホッケーについて世代を超えて一喜一憂できることが楽しい。県外から来て選手兼指導者をしてくださった方々、今でも月一で飲み会をする仲間、宮崎ホッケーの世界に入ってきてくれた後輩達に感謝です。2027年の大会を機に、ホッケーがますます県民に親しまれるよう私達も頑張ります。
氏名 井上 哲也さん(日南市)
エピソード 中学1年だった私は、炬火ランナーとして町内(旧南郷町)を走りました。また、軟式野球の選手だった親父は、宮崎国体では審判をしました。宮崎国体シンボルマーク入りの濃紺の審判員ユニフォームは私の憧れでした。そんな親父を見て育った私は、福岡とびうめ国体(平成2年)に軟式野球選手として出場しました。チームは「南郷タイガー」という地域のクラブチーム。団体での国体出場は町史上初。チームの様子は、町の無線で全世帯へ随時伝えられていたそうです。そして今、私は市職員として市民スポーツの振興を担当していますが、私自身の経験から、スポーツは人生を豊かにしてくれると確信しています。令和9年の大会が市民にとって、スポーツに関わるきっかけになれればと思っています。
氏名 入倉 俊一さん(日南市)
エピソード 私は、日南市の大会準備に携わりました。大会運営に女性の協力が不可欠と考えた市は、大会数年前から毎週、女性を対象としたソフトボール教室を開催しました。担当は未経験者の私。その甲斐あってか、抜群のチームワークでした(上達具合は定かではありませんが)。また、日南市開催競技(軟式野球、レスリング、ヨット)運営の練習のため、週末は様々な大会を開催し、日曜夜は決まって皆で打ち上げでした(笑)。こうして、一つ一つ皆で乗り越える度に、運営スキルと絆が深まったように思います。私も多くの方に出会えて毎日が楽しかった。今でも付き合いがあり人生が豊かになりました。
宮崎国体の成功は、県民に「自信と誇り」を持たせてくれました。令和9年の大会も県民みんなで創っていけたらいいですね。
氏名 谷口 彰規さん(宮崎市)
エピソード 中学2年生だった私は、開閉会式に吹奏楽隊として参加しました。運動公園ができ、国道が通り、当時の宮崎市内は国体一色。楽隊以外の同級生は、皆、集団演技で大会に参加しました。私にとって吹奏楽の思い出といえば宮崎国体。宮崎国体といえば大胆なオレンジ色のブレザーと行進曲1曲目の「草原(くさはら)」。「草原」は、皇太子妃時代の美智子様が来県時の思い出を詠まれた歌に曲がつき、更に行進曲へと編曲されたもの。『耕運機 若きが踏みて 草原の 土はルピナスの 花をまぜゆく』私はこの歌が大好きで、今でも歌えます。教員になり生徒と運動公園へ行く度に、オレンジ色と草原の話をしたものです。令和9年の大会も、永く子ども達の心に残るといいですね。
氏名 酒井 ミツ子さん(西都市)
エピソード 当時、西都市で小学校の教諭をしていました。「西都市の子ども達が皆で踊れるダンスを作りたい。」「地域に根付いた伝統芸能を取り入れたい。」そんな思いから、地域の方や子ども達の協力を得て「子ども臼太鼓踊り」を作ったところ、「ふるさと国体」の趣旨にあうということで開会式の集団演技に採用されました。
開会式当日、西都市内の6年生と保存会、合わせて663人の見事な演技と子ども達のかけ声に感動の涙でした。以降、現在まで西都市全ての小学校で踊り続けられ、親、子、またその子と3世代に受け継がれていることを嬉しく思います。
令和9年の大会も、子ども達にとって一生の思い出、人生の礎になるものを残してほしいですね。
氏名 長友 寧雄さん(宮崎市)
エピソード 宮崎国体時は、レスリング競技の選手兼指導者でした。教員だったので生徒をレスリング競技に勧誘するところから始めました。夢中になるものができ、変わっていく子どもを見て保護者が信頼してくれるようになり、兄弟で預けてくれました。自分がやらないとついて来ないので、練習は1(自分)対4(教え子)でやることもありました。
大会時は、婦人会のもてなしなど、会場地であった日南市が盛り上げてくれました。
国体は、毎年開催されています。多くの県民が国体(国スポ)のこと、代表選手のことを知り、応援してくれると嬉しいですね。
氏名 米田 ゆかりさん(宮崎市)
エピソード 投てき選手だった学生時代、宮崎県から何度も声をかけられ、縁もゆかりもなかった宮崎に来ました。宮崎国体前は、合宿や合同練習が頻繁にあり、陸上競技は種目を超えて仲良しでした。台風の影響で中止になるのではないかと心配しましたが、私の種目は開催され、家族や一緒に練習していた仲間、地域の方々の前で準優勝でき本当に嬉しかったです。
翌、昭和55年の栃木国体時に民泊でお世話になった家族とは、ずっと手紙のやりとりをしていましたが、昨年(令和4年)の栃木障スポ引率時に再会しました。素敵な出会いに感謝です。
令和9年の大会では、県民皆でおもてなしをし、大会が終わっても皆で思い出話ができるといいですね。
氏名 田熊 良市さん/太田 茂さん(新富町)
エピソード 私達は、スポーツ大好きな農業青年でした。「国体に出たい。」この一心で、地元の仲間を募り、やったことのないボート競技で国体を目指しました。昼間は仕事で農作業のため、練習は夜。厳しい練習でしたが休む者はいませんでした。何でも言い合えるチームメイト、支えてくれた家族や地元の皆に感謝です。
国体後、地元新富町の皆にボートの魅力を伝えたいと始めたのが「新富レガッタ」です。
令和9年の大会では、子ども達に大人が一生懸命に取り組む姿を見せてあげてほしいです。
氏名 髙久 堅吾さん(延岡市)
エピソード 実家のお寺が千葉県バスケットボール少年男子の民泊先でした。
当時自分は中学1年生。家族総出で食事等のお世話をしました。余暇の時間は、選手と一緒に銭湯に行ったり、釣りをしたり、バスケを教えてもらったりと楽しく鮮明に覚えています。帰りは細島港で互いにテープでつないで見送りました。今でも年賀状のやりとりをしています。皆に会いたいです。
令和9年の大会でも、選手との「ふれあい」を大切にしてほしいですね。
氏名 芝﨑 敏之さん(宮崎市)
エピソード 当時、日南市にある南那珂農林振興局に勤めていた私は、開会式が開催される宮崎市まで選手を連れていくバスの添乗員をしました。日南市から宮崎市までは日南海岸を約1時間。「せっかく県外から来られるなら宮崎を知ってもらいたい。」「移動中、退屈させたくない。」と思い、鵜戸神宮、サボテン公園、青島など道中にある観光地について勉強し、「よかったら聞いてください。」と言ってプチバスガイドをしました。「この木は植えて何年になりますか。」という選手の質問にはタジタジになりましたが(笑)。県外の選手を前に「また来てほしい」と思ったのを覚えています。来県される方々に宮崎の魅力を伝えられたらいいですね。
氏名 渕ノ上 文也さん(宮崎市)
エピソード 宮崎国体はコーチとして参加し、過去国体には30数回選手・役員として参加しました。レスリング選手としては昭和59年の奈良国体で引退しましたが、宮崎県チームの応援に民泊先の方が全員で応援に来ていただき大変嬉しかったです。監督して参加した平成元年の北海道国体では地元宮崎県人会の方々より応援、激励いただき感激したのを覚えています。国体を通じて出会いのあった方とは今でも手紙などでの交流をしています。高校生にとっては、インターハイ、国スポと目標が変わっていくと思います。楽しい思い出となるよう目標に向かって頑張ってほしいですね。
氏名 岡崎 真澄さん(宮崎市)
エピソード 県国体事務局の輸送通信係でした。当時の通信手段は電話。競技結果を速やかに把握できるように、市町村や電電公社(現在のNTT)の方と一緒に、競技会場へ電話機を設置しました。仕事を通じていろんな人と出会うことができ楽しかったです。開会式前夜、木花の総合運動公園入口付近での作業中にふと見上げると満天の星空。「これで開会式ができる。」と思いました。華やかな開会式を見て、「この仕事に携われて良かった。」「良い経験ができた。」と満足しています。台風で中止になった競技があったことだけは残念でしたが。令和9年の大会がお天気に恵まれることを祈っています。
氏名 野間 千代さん(宮崎市)
エピソード 中学2年生だった私は、開閉会式の吹奏楽隊でバスクラリネットを担当しました。元々、私は帰宅部。「宮崎国体のために」と先生から勧誘されて始めたバスクラリネットは重い(笑)。夏の練習の暑さ、オレンジ色のブレザー、選手団入場行進の演奏の長さ、楽隊席から見た子ども臼太鼓踊りを強烈に覚えています。あれから約半世紀。あの時の経験の重みを、今、ひしひしと感じています。令和9年の大会は、手話ボランティアとして参加する予定です。今度の参加は、100%私の意思です。私の人生において二度も国スポ(国体)・障スポに関われるなんて何かの縁を感じます。私のサポートと案内で、宮崎ファンを増やしたいです。
氏名 下之薗 制勝さん(宮崎市)
エピソード 920名の吹奏楽隊の視線を一身に浴びながらの指揮。これまでの吹奏楽人生で、最も大規模なステージでした。何より気を遣ったのは、式典の進行とタイミングを合わせること。司会や花火隊と連携を図りながら、できるだけ大きく指揮をふりました。台風で急遽大淀中のみの演奏となった国体閉会式、感激のあまり終わらない選手団の行進に合わせ、曲を十数回も繰り返した障スポ大会閉会式、どれも印象深く覚えています。
国体をきっかけに宮崎県の吹奏楽を盛んにしたいという気持ちで、指導、調整にと県内各地を走り回り、苦労もしましたが、良い経験です。
令和9年の大会も、参加することをチャンスと捉えて、参加する人自身のレベルアップにつなげてもらえるような大会になると良いですね。
氏名 佐原 正寛さん(宮崎市)
エピソード 橘通りから運動公園までをつなぐ、宮崎のシンボル・ワシントニアパーム。こうした宮崎ならではの花と緑いっぱいの景観は、実は、国体をきっかけに道路づくりやまちづくりが進む中で生まれ、今日まで引き継がれてきたものです。私はこの景観づくりに携わりました。
宮崎南バイパスの整備計画を初めて知ったときは、あまりに壮大で、滑走路を作るのかと思うほど驚いたのを覚えています。
バイパス、運動公園、平和台公園等の植栽を手がける中で感じたのは、立場を超えて、色々な人と協力して取り組むことの大切さ。花は、生活の中にあってこそ輝き、手をかけたらかけたほど育ちます。3年後に向けて、もっとたくさんの人に、花に親しんでほしいです。